僕たちにあてがわれたロッカールームの中には、幸運なことに誰もいなくて、気味が悪いほどにしんとしていた。

いつもなら隣に座っている男が頼んでもいないのに無駄口を叩いてくれるのに、今日はやけに静かなので、

脳内で審議にかけられている案件を熟考するには丁度いい機会だ。

思考に没頭していれば、あまり好ましくない消毒液の匂いもあまり気にならなくなるだろう。


この男は馬鹿なのか、それとも阿呆なのか、そろそろ結論を出したいところだ。

どう考えても、僕が理想としていた相棒像とはつりあわないし、もともと相棒なんていうものを欲してはいなかった。

コンビのヒーローを売り出したいという会社の意向に従っているだけだというのに、こんなに酷い相棒をあてがわれるくらいだったら、

ロイズさんに文句の一つでも言ってやりたくなる。ヒーローとしての活躍と、バーナビーとしての準タレントといってもいいくらいの仕事内容を思えば、

それくらいの我侭を許されるくらいの働きはしているつもりだ。目の前にいるおじさんが足を引っ張ってくれることを差し引いて考えれば。


「なあ、バニー。そんなに見つめられても困るんだけど」

 いま僕の中では馬鹿と阿呆が競り合っていて馬鹿のほうが勝ちそうだったけれど、この見当はずれな間抜け発言のせいで阿呆が追い上げてきた。

つまり、もう救いようがないということなのだろうか。自然とでそうになったため息を飲み込んで、こちらを伺ってくる鳶色の瞳をにらみつけた。


「あなたの馬鹿さと阿呆らしさに呆れていたんです」

「そんなに心配しなくても大丈夫だって」

 今度は見当はずれを越えてさらに遠いところに場外ホームランを打ってくれたおじさんに頭を抱えてしまった。

どうしてそんなに楽天的なんだ。しかも、こっちは睨みつけているのに、そんな緊張感のない顔で笑わないでほしい。

もしかしたら、こういうのをジェネレーションギャップというのかもしれない。僕たちの間にはもはや修復も不可能な深くて広い溝が広がっている。

せめて、勘違いはされないようにと誤解を解くために僕は口を開いた。


「心配なんてしてません! そんな顔してないでしょう! 怒ってるんです! あんなところで飛び出してきて怪我して僕の足を引っ張ってくれたあなたに!」

 いつも通りの出動要請に他のヒーローに負けないようにと駆け出していって、いつも通りこのおじさんが考えなしの行動をしてくれた。

ただいつもと違ったのは勝手に危険地帯に飛び込んで勝手に怪我をしたところだ。

特別酷い怪我ではないようだったが、負傷した腕には白い包帯が巻かれていて微かに消毒液の匂いがする。


「あー、だってああでもしないと犯人止められなかっただろー」

 当の本人は怪我の名残を感じさせないオーバーリアクションで肩をすくめて、体が勝手に動いちまったんだしさ、

最終的にはバニーのポイントにも繋がったわけだし万々歳じゃねえのと勝手に自己陶酔に浸っている。

いくらスーツを着用しているからって、暴走している装甲車の前に考えなしで走り出て自分の体で車両を食い止めるなんて、

自殺志願者か愚か者のすることだ。しかも能力を発動しているときならまだしも、能力ののの字も使っていないときにだ。

僕ならもっとうまいやり方を考えることができたのに。

あの場所にはスカイハイもいたのだから、彼が動くのを待てばあそこまで危険なことにはならなかったはずだ。

それくらいのことが、このおじさんには分からないのだ。


「なんだよ、黙り込んで」

 やっと僕と自分のテンションの差に気づいたらしく、おじさんは気遣わしげに僕の顔を覗き込んできた。

だが、気遣っているのは僕の体調でないことは確かだった。

また余計なことで嫌味でも言われるんだろうか面倒だなあと、考えをめぐらせている表情だ。もちろん、その想像通りなのだが。

その振る舞いが僕の怒りの油を注いでいるということが分からないのだろうか。

鎮火させたいのか、さらに炎を激しくさせたいのか分からない。


「あなたの馬鹿さ加減に言葉を失っているだけです」

 いろんな意味でと心の中で付け加えた。僕の言葉を聞いたおじさんは帽子のつば弄りながら詰まらなさそうにそっぽを向いてしまう。

その行動にあんたは何歳なんだと問い詰めたくなった。

言いたいことはたくさんあったのに、面と向かって言葉にしようにもその気力もそがれてしまう。

なのに、分かりやすく不機嫌ですと頬を膨らませているおじさんは、勝手な理論を展開して僕のことを責めてくるのだからたまったものじゃない。


「いいじゃねぇか、怪我人はでなかったし犯人も捕まったし」

 ここまでくればもはや、親に怒られて拗ねている子供の自己肯定じゃないか。

どの口がそれを言うのかと、今度こそ飲む込むことなくため息を吐き出した。

そこに含まれているのは、たぶん真っ黒な苛立ちだ。うっとうしく目にかかる前髪を掻き揚げて自分に冷静になれと呼びかける。

この人が大人気ない行動をとるたびに、僕まで引きずられたように感情的な態度をとってどうするんだ。

同じ次元でやりあっていては意味がない。


「それに犯人たちの車はこっちを狙ってたんだから、俺が出て行かなかったらバニーちゃんだって怪我してたかもしれねぇだろ」

「守ってくれなんて頼んだ覚えはありません!」

「なんだよ! 頼まれて守るもんでもないだろ!」

「だとしても、あなたが怪我してたら意味ないじゃないか!」

 おじさんの驚いた顔に、ああ、と思った。

目を丸くするという言葉にぴったりなまんまるな鳶色だ。その次の瞬間にはやってしまったとも。

これじゃあ、僕が伝えたかったことと正反対のことを思っているみたいじゃないか。

冷静に冷静にと呼びかけていた心の中の自分をいとも簡単に握りつぶして、考えるよりも先に吐き出した言葉に、自分で自分に頭を抱えたくなった。

どれだけ願ったって声にしてしまった言葉は消去できない。次になにか言わなければ、否定をしなければ、この無言自体が肯定になってしまう。

違う、これではまるで、まるで。


「おい、バニー」

「もう、いいです」

 鳶色の瞳を瞬かせたおじさんが言葉を継ぐ前に、咄嗟に口を開いた。なにがいいのかなんて自分にも良く分からなかった。

賢いとは思えない切り抜け方だ。

でもほかにいい方法なんて思いつかなくて、時間稼ぎをするかのように、ずれてしまっていた眼鏡を外して、目頭を押さえる。

滲んだ世界の境界は水中で眼を開いているかのようにぼんやりとしていて、目の前のおじさんの表情さえ曖昧だ。

でも、これくらいが丁度良かった。この男といると調子を崩されるから、かき乱されるくらいなら見えないほうがいい。

だけど、いつまでも現実を拒否しているわけにもいかないので、眼鏡をかけなおして、レンズ越しにこちらを見つめてくる視線を受け止めた。

クリアな視界には、先ほどまでと寸分も変わらぬ光景が広がっている。


「あなたと話していても埒が明かない」

「そんなことねえだろ」

 慌てたようにイスから腰を上げようとしたおじさんに、もう結構ですとだけ言い残して背を向けた。

僕を追いかけるように、乱暴に床を蹴る音がする。誰かなんて考える必要もなかった。

頼んでもいないのに無駄に俊敏な動きで目の前に回りこまれて、おじさんに正面衝突しそうになる。


「急に前に出てこないでください」

「いや、話終わってないのにいっちまうから」

 ぶつかりそうになった僕を支えるように肩に添えられた手のひらを振り払って、困惑したような色合いを宿した鳶色の瞳を見返してやる。

日系で肌自体も色黒なせいか、腕に巻かれた包帯がいやというほどに目についた。

まるで、僕に対して守ってやったんだということを自己主張しているみたいだ。それが悔しくてわざと視線をそらす。

だが、おじさんはそんなことに気づきもしないで僕のことを覗き込んでくる。


「終わるどころか、始まってもいません。安心してください」

「無理やり終わらせたのはお前のほうだろ」

 まだ絡んでこようとするおじさんを振り切ってロッカールームを出ようとすると、すかさずに腕を掴んで引き止められる。

案外強い力で掴まれたせいか、食い込む指先が痛い。

このおじさんは僕相手になにを必死になっているんだと冷めた気持ちが頭をもたげてくるが、

それ以上に必死になってこの場を逃れようとしているのは間違いなく僕のほうだ。

それが遣る瀬無くて、掴まれた腕を振り払う。なのに強く握られているせいで、男の手のひらから逃げ出すことができない。


「だから、始まってもいないといっているじゃないですか。これ以上は時間の無駄です。放してください。

それとも男の手を握り締めるような変わった趣味があるんですか?」


 いつもなら子供じみた嫌味を返してくるところなのに、おじさんはいたく真面目な顔をしてこちらを見つめていた。

口よりも目が饒舌だというのならば、まっすぐに僕を見つめるこの鳶色は一体なにを語りかけようとしているのだろうか。

それを感じ取ることもできないし、知りたいとも思わない。

だがそんな僕の意思とは逆に、逃げることを許さないとばかりに掴まれた腕は逃げ場を奪っていく。

せめてその視線から逃れることができるようにと、やけにゆっくりと瞼を閉じた。

瞼の奥に残る光だけを残して風景を遮断したせいか感覚だけは鋭敏で、僕の手首を握っている体温が酷く近くに感じられた。

ほんの数秒だけ訪れた擬似的な暗闇の奥で、危険信号を知らせるように真っ赤なランプが光を放っていた気がした。

これ以上は駄目だと。


「そんな趣味はねえから安心しろ。でも、こうやって逃げてばっかりじゃ話になんねぇだろ」

「逃げてなんかいません」

 僕を侮辱するような言葉に、反射的に反応してしまう。どれだけ上司に責められたって反省しないこの男は、

先輩面をして当たり前のように僕の中に踏み込もうとする。そして、相棒だからといって多くのものを共有しようと強要してくる。

それに何か意味があるのだろうか。すべてが時代遅れの理想論と熱苦しい押し付けでしかなかった。

何も知らない男にまるですべてを知っているかのように振舞われるのが不快で、自然と唇を噛み締めてしまう。

それを何の意味ととったのか、僕の腕を掴んでいたのと逆の手のひらが何の躊躇いもなしに伸びてきた。


「そんなおびえた顔しなくてもいいのに」

 節くれだった男の手のひらは指先の皮膚が硬くてざらざらとしていた。そんなこと知りたくもなかったのに。

おじさんと同じように無遠慮な指先は僕の頬に触れて頬をなぞっていく。

それは、明確な意思を持って、自分を戒めるように噛み締めていた唇に触れた。

あんまり噛んでると血が出るぞと低い声が言う。怪我をしているおじさんにだけは言われたくないと思ったが、

それがまた彼の勘違いに拍車をかけてしまいそうで、言葉に反するように自分の口内の柔らかい肉をかんだ。


「あなたも、眼鏡をかけたほうがいい」

「あー、コンビだしいいかもな」

 そういうことをいいたいんじゃないという意味をこめて睨みつけてやる。しかし、僕の気持ちなんて伝わっていなかったのか、

返ってきたのはふざけたような笑い顔だ。この男は馬鹿なのか阿呆なのか、脳内会議の結果は混乱してばかりだ。

僕の考えていることなんて知りもしないであろうおじさんは、癇に障る笑い顔のままバニーちゃんと、ふざけたあだ名を呼ぶ。


「でも今回はこれくらいで許してやるよ。男の手を握る趣味もないけど、ぶるぶる震える兎ちゃんを苛める趣味もないんでな」

 肩をすくめて首をかしげたおじさんはその宣言通りに僕のことを解放した。

どれだけ振り払おうとしても離れなかったてのひらが、いとも簡単に離れていく。

もしかして痕になっているんじゃないだろうかと心配になったが、おじさんの体温の名残さえも残っていないそこには指の痕一つなかった。


「ずいぶんと、度の強い眼鏡が必要みたいですね」

 つとめて冷静にと自分に呼びかけていたのに、ひどく冷めた声色だった。反応するなと思えば思うほどに意地になっていく自分がいる。

動揺は相手の動向に心揺さぶられている証拠だ。このおじさんごときが僕になにを言ったとしても、僕には関係ないというのに。


「そこまでしなくても、俺の視力は正常だ。まあ、怪我のこと心配してくれてありがとうな」

「心配してなんていません」

 あまりの見当違いな解釈に、突き放すように吐き出した。なのに、おじさんはただ困ったように笑っただけだった。

怒るでもなくあきれるでもないその態度に、この人はただの嗜虐趣味なんじゃないかと不安になってくる。


「だとしても、だよ」

 バニーちゃんは素直じゃねぇから。おじさんの呟きは普段の大人気なさをどこかに置き忘れてきたみたいに静かなもので、

まるでできの悪い生徒をみる教師のような雰囲気でもあった。


「独断行動が過ぎたことは認める。次からは気をつけるさ」

「気持ち悪いです」

「はあ?」
 まるく見開かれた鳶色の瞳はすぐに細められて怪訝なものになった。

きもちわるいってともらした彼に、ああ僕が言いたかったことが伝わっていなかったのかと悟る。

だから今度は、あまり理解力の高くないおじさんにも分かりやすいように、噛み砕いて伝えることにした。


「そんなふうに謝られると、気持ち悪いって言ってるんです」

 普段なら、意地でも僕に謝ったりなんかしないし、自分の非にも気づかないのに、珍しく素直に謝ってくるものだから、

一体どんな心情の変化があったのかと逆に心配になってくる。

だが、僕の心配をよそに、おじさんはいつもと変わらない調子で、本当にかわいくねえのとため息をついただけだった。


 いつも思うのだが、このおじさんは、男の僕にかわいげを求めて何がしたいのだろうか。

「こっちが素直に謝ってやってるのに。とりあえず、心配かけて悪かったなってことだよ。理解いたしましたかバニーさん?」

「心配なんてしてませんけど、あなたが非を認めるというのならそれでいいです」

「本当にもう、バニーちゃんは……。引き止めて悪かったな。俺行くわ」

 帽子をかぶり直したおじさんは、僕の返事も聞くことなくじゃあなと包帯の巻かれた方の腕を軽く上げて、

手のひらをひらひらと振りながらロッカールームから出て行ってしまった。僕を止めたかと思えば、勝手に去っていってしまう。

いったあのおじさんは何がしたかったのか。僕には理解できそうもなかった。


 一人取り残されたロッカールームは酷くしんとしていて、さっきまであの騒がしい男がいたということさえ信じられないくらいだ。

音のない中でいままでのやり取りが頭の中を占めていく。僕は心配なんてしていないし。間違っても泣きそうになってなんかいない。

あれは、おじさんの都合のいい解釈の集大成だ。

じゃあ何故僕は、あんなにも必死になって彼の言葉から背を向けようとしたのだろうか。

どうして一時の激情に任せるみたいに声を荒げてしまったんだろうか。答えならいくつかのパターンが用意できた。

でもそれは、僕の理性が整合性を求めながら後追いみたいに組み立てていくつぎはぎの理論だ。

だから、僕が待ち望む真の答えではない。

だが、必死になって閉めようとしているふたを開けてなにかいいことがあるのだろうか。

もういなくなった男の影をなぞるように自分に問いかけてみても返事なんてものはなかった。知りたいとは思わない。

だから、まだ大丈夫だ。


 痕も名残も残っていない手首をなぞると、僅かに自分のものではない体温の残滓を感じられるような気がした。





11・05・16